今月の1点 Monthly Pickup 2月
 
 

        
                  「 mãe 」


岩壁 冨士夫 (いわかべ ふじお) ( 1925−2007 )作

1989(平成元)年、紙本着色、163.5センチ×109.0センチ


岩壁冨士夫 《mãe》
 

 全身を黒衣で包んだ一人の老女が、浜辺で静かな時間を過ごしています。色彩を欠いた装いと、きちんと揃えられた膝、その上に慎ましく組まれた両の手。その居住まいは、一見すると神に向かう者のそれのようでもあります。
 しかし彼女の顔を良く見れば、その印象は少し変わります。伏し目ながらも何かをしっかりと見据える眼差し、くっきりと弧を描く意志の強そうな眉、引き結ばれた唇の少し上がった口角は、その表情をただ穏やかなだけでなく、生気に満ちたものにしています。そしてそれは、彼女のそれまでの人生で培われた自信と誇りとに基づく、深い慈愛の精神をすら感じさせます。神と向き合っていると言うよりはむしろ、もっと身近な、彼女が大切にしている何かに対して想いを馳せているような印象を与えます。
 1969年、日本画家・岩壁冨士夫は欧州を訪れました。なかでもイベリア半島西岸に位置するポルトガルの風土に魅了され、その後何度も作品の題材に選んでいます。
 全身を覆う黒衣は未亡人を表わす伝統的な装束で、作者が心惹かれたという、ポルトガル北部にあるムルトザの漁村でも見かけられたことでしょう。ポルトガルの海辺や未亡人というキーワードで、ポルトガルの大衆歌謡であるファドの国民的歌手、アマリア・ロドリゲスが歌った「Barco Negro」(邦題「暗い艀」)を思い出す人もいるかもしれません。
 ポルトガルには、ファドとは切り離せない、或る感情を表わすサウダーデという言葉があります。日本語には上手く合致する言葉がありませんが、失われた大切な何か、或いは切望する何かを想う、そういった心の動きや状態を表わす言葉と言えば良いでしょうか。そこには悲しみや切なさだけではなく、何かを愛おしむ甘さや温かさが含まれているようです。
 ポルトガル語で母を意味するこの「mãe」に作者がサウダーデを意識したかどうかはわかりませんが、岩壁作品特有の太い描線と明快な色彩構成が生み出す空気には、歌い手の身体を通して地から天へと立ち上っていくようなファドの響きの芯の強さと共通するものがあるかもしれません。
 この作品は、2/20から開催される冬季収蔵作品展(3/28まで)にて展示される予定です。

(美術館 J.K )

< 略歴 >
1925年茅ヶ崎生まれ、東京育ち。42年、東京美術学校(現・東京藝術大学)予科に入学。本科二年時より小林古径、安田靫彦らに師事。47年日本画科卒業、教員の仕事をしながら制作を続ける。56年、再興日本美術院展覧会に初入選。58年、奥村土牛に師事。69年渡欧。以後欧州、とりわけポルトガルの風景や人物を題材にした作品を多く手がける。79年、新島・若郷の妙蓮寺本堂天井画の制作を開始、91年に完成。83年、日本美術院同人推挙。84年、武蔵野美術大学日本画科講師を務める(89年まで)。2007年、肝不全のため都内の病院で逝去。