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今月の1点 Monthly Pickup 7月

《 武者小路実篤著『友情』(特装版)見返し 》 岸田 劉生 ( きしだ・りゅうせい 1891~1929 )

1920(大正9)年 木版(多色)・紙 縦19.3×横25.5(cm) 《茅ヶ崎市美術館所蔵》

 

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 岸田劉生と聞いたとき、何を思いだすでしょうか?
 ともに重要文化財に指定されている《道路と土手と塀(切通之写生)》(1915年/東京国立近代美術館蔵)や、愛娘をモデルに描いた《麗子微笑(青果持テル)》(1921年/東京国立博物館)などの油彩画でしょうか。それとも、中国の宋元画の影響が強い、写実的で濃密な油彩画や日本画の作品でしょうか。
 今回とりあげた作品は、劉生より6歳年長の友人・武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ/1885~1976)の小説『友情』(特装版)の見返しとして描かれたものです。と、いっても実際の本から取り外したものではなく、劉生が手がけた書籍の装幀(表紙絵や見返し、扉など)の中から、当時名人と称された彫師・伊上凡骨(いがみ・ぼんこつ/1875~1933)が彫板<ちょうはん>したものを選んで刊行した『劉生圖案畫集<劉生図案画集>』(1921年)に収められた作品です。
 劉生は生涯に手がけた装幀は70とも90ともいわれていますが(そのうち40冊以上が武者小路実篤の著作です)、劉生自身これらの仕事を「余技」とは捉えておらず、油彩画などの制作とまったく同列に扱い、大切な仕事と考えていました。 

 作品の右側に「二人麗子之図」とあるように、画中の少女はふたりとも劉生の長女・麗子(1914~62)です。髪型は油彩画などで描かれている麗子像などとおなじおかっぱですが、顔つきはそれほどデフォルメされておらず、劉生が愛してやまなかった麗子の少女時代の面差しがよくわかります。
 三年後の1923(大正12)年9月に発生した関東大震災を機に転居することになりますが、足掛け7年に及んだ劉生一家の鵠沼在住時代にみられた、平穏な日常の一コマのような作品です。

(美術館 N.Y)

この作品は常設展「-2015- 夏季収蔵作品展~あそび、おもちゃ と おたのしみ~ [会期:2015年7月19日(日)~2015年8月30日(日)]に展示されています。

<略歴 >

岸田 劉生 (きしだ・りゅうせい) [1891(明治24)年~1929(昭和4)年]
1891(明治24)年6月23日、東京銀座に生まれる。父・吟香<ぎんこう>は明治の先覚のひとりでジャーナリスト、実業家としても成功した人物。1908(明治41)年、白馬会葵橋洋画研究所で黒田清輝に師事。1911(明治44)年、武者小路実篤ら雑誌『白樺』周辺の作家たちと知りあう。また『白樺』を介してゴッホなど後期印象派を知り共鳴する。翌年、高村光太郎らとヒュウザン会を結成し展覧会を開催(翌年フュウザン会と改称するが二回目の展覧会開催後解散)。1915(大正4)年、現代の美術社主催第1回美術展に出品。同展は翌年より草土社展と改称、メンバーは劉生に影響を受けた木村荘八、中川一政、椿貞雄ら。1917(大正6)年、結核と診断され藤沢町(現・藤沢市)鵠沼に転居。1922(大正11)年、春陽会創立に際し客員として参加、翌年の第1回展以降第3回展まで出品。1923(大正12)年、関東大震災により自宅が半壊したため名古屋を経て京都に移る。京都では中国宋元画や初期肉筆浮世絵などの蒐集に没頭する。1925(大正14)年、春陽会を退会。翌年、鎌倉に転居。1929(昭和4)年、当時の満州国に赴き講演会、展覧会をおこなう。12月20日、満州からの帰途立寄った山口県徳山にて病歿。

 

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