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今月の1点 Monthly Pickup 10月

題不明《海岸へと続く松林》 萬鐵五郎 ( よろず・てつごろう 1885~1927 )

制作年不詳 紙本墨画、淡彩/軸装 縦137.0/横33.5(cm) 《茅ヶ崎市美術館所蔵》

2014_10gatsu_400.jpg  私が小学校へ通学していた道を、家から百米ほど行くと、左右から黒松が鬱蒼と道を覆って、昼なお暗い所が二、三
 十米続いていた。そのあたりは旧い時代の海岸砂丘の名残で、その松に覆われた場所はだらだらの坂道になってい
 た。
  私たちはそこを「伴田(ともだ)の坂」と呼んでいた。(中略)
 坂の北側の松林は東西に長くて、さらにその北側に沿って、これも幅十米ほどもない狭い畑があり、その先は急に低く
 なっていた。
  私が小学校四年生の頃のある日、この畑に画架を立て、「伴田の坂」に背を向けて、コンテで写生をしている絵描き
 がいるのを発見した。この人が萬鉄五郎だったのである。(*)

 この「私」というのは、のちに水彩画家となった三橋兄弟治(いとじ・1911-1996)。自身の少年時代の回想録に当時の茅ヶ崎風景と、萬との出会いを記しています。三橋少年と萬の家は「二、三分で行かれるきわめて近い距離にあった」(*)とのことで、家の付近や、海岸でスケッチしている萬を度々見かけていたそうです。
萬は1919年、肺結核と神経衰弱の療養のため茅ヶ崎へ移り住みます。この地の風土が適したのでしょうか、天気の良い日は外で写生をし、画室では精力的に南画研究に取り組みました。心身の回復とともに描く作風も暖かく明るい色彩へと変化していきました。
 この作品は茅ヶ崎をモチーフに描いた南画で、制作時期もちょうど三橋少年が萬を見かけていた頃にあたります。南画はもともと中国の南宗画から由来するもので、日本に伝来し独自の発展をしていきました。風景画が主に描かれていましたが、見たままの風景、写実的な描写ではなく、むしろ自身の心の内を写し、感じたままを表現する精神性を重視する技法といえるでしょう。本作を画面の下から上へと目線を上げつつ観てみましょう。起伏のある砂地の山とそれを覆う松林。その間を縫うように進むと、ぽつぽつと家が見えてきます。はねつるべ式の井戸がありますがその左上にいる二人の人物よりかなり大きめに描かれています。さらに奥へと進み、一番上部にある大きな山を越えると最後に海へとたどり着くことができます。墨線の強弱のある太さ、濃淡のバランスがとれており、所々に入れた彩色が画面全体のポイントとなっています。

*三橋兄弟治「茅ヶ崎の萬鉄五郎」『掌篇集 天才でなかったピカソ』木耳社1983年 初出『アサヒギャラリ』1977年


 (美術館 S.T)



この作品は『明治を歩く ―湘南と武蔵野 府中市美術館コレクションを中心に』 [会期:2014年9月7日(日)~11月3日(月・祝)]に展示されています。

<略歴 >

萬鐵五郎(よろず・てつごろう) [1885(明治18)-1927(昭和2)年]
岩手県東和賀郡十二ヶ村(現・花巻市東和町土沢)に生まれる。18歳で上京し、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。1912年、同校卒業。同年、岸田劉生らが結成した「フュウザン会」に参加し、フォーヴィスムの影響による強烈な色彩と大胆な筆触をもって近代的な画風を展開、のちにキュビスムの造形探求へと変化していく。1919年、茅ヶ崎へ転居。この頃より、日本の伝統絵画へ関心をもち始め、油彩画のほか南画も描くようになる。1926年に長女登美を亡くしてから健康を害し、翌1927年、茅ヶ崎にて死去する。

 

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