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          上赤羽根八雲大神神輿の台輪 


        1896(明治29)年 木製品 《上赤羽根八雲大神所蔵》


上赤羽根八雲大神神輿の台輪
 

台輪[だいわ]〉とは、お神輿[みこし]の土台となる部分のことをいい、前後の四角い〈棒穴〉に担ぎ棒である〈長柄[ながえ]〉(〈[ながえ]〉とも)を通します。
このお神輿のように、担ぎ棒が二本の〈長柄〉のみのものを〈二天棒〉といい、〈相州[そうしゅう]神輿〉の特徴のひとつです。ほかに、台輪の両側面に〈[かん]〉という金具がふたつづつ取りつけられているのも〈相州神輿〉の特徴です。〈環〉は、〈箪笥[たんす]〉とも呼ばれ、その名のとおり箪笥の引き手のような形状で、これを両手で叩きつけるように打ち鳴らし、担ぎのリズムを整えます。

この〈台輪〉が使われたお神輿が造られたのは1896(明治29)年。台輪内部に「明治廿(二十)九年四月 相模國(国)愛甲郡愛川半原 木匠矢内右兵衛藤原高光[もくしょうやうちうへいふじわらたかみつ]」と墨書されており、神輿建造を指揮したのが矢内匠家第14代の矢内高光であることがわかります。このお神輿、当初から上赤羽根の八雲大神[やくもおおかみ]のお神輿であったのではなく、寒川町一之宮西町地区の八雲神社のお神輿として新造されたものでした。
お神輿が新造された頃、寒川では屋台(山車[だし])を曳くお祭りが盛んになり、西町地区では1899(明治32)年頃に屋台も建造されていました。一方、茅ヶ崎の上赤羽根八雲大神では、その前身である天王社時代から担がれていたお神輿がありましたが、小振りのものであったため、地区の若者たちから重量感のある大きなお神輿を担ぎたいという声があがっていました。
そこで1901(明治34)年、寒川の八雲神社から上赤羽根の八雲大神にお神輿が譲渡されたのです。

その譲渡から百年目の2001(平成13)年、上赤羽根八雲大神のお神輿は修復され、台輪は新調されました。
また、西町地区の屋台も一之宮地域内の北町と東町の屋台とともに2006(平成18)年に大修復が施されています。
現在、上赤羽根八雲大神神輿は7月の浜降祭や9月の例大祭での神輿渡御[とぎょ]の際に、西町屋台は一之宮八幡大神屋台神賑[しんしん]行事(8月第一日曜日の前日)での巡行などでその姿をみることができます。

建造から百年間お神輿を支えてきた上赤羽根八雲大神神輿の台輪は、共催展「藤沢市・茅ヶ崎市・寒川町資料展 湘南に残る[たくみ]の技 宮大工の世界」会期中の11月4日(日)まで、美術館一階エントランスホールで展示しています。

(美術館 N.Y )

<矢内高光略歴>
十二代柳川安則(1760〜1834)を祖とし、現在の愛甲郡愛川町半原に本拠を置いた宮大工・矢内匠家[やうちたくみけ]の十四代目。1822(文政5)年生まれ。安則の子とする文献があるが、十三代柏木徳太郎(1788〜71)の子と考えられている。十二代柳川安則は小田原藩大久保家のお抱え大工となり、また、江戸城作事方にも任じられ、その技量を認められて寛政末期に〈柏木〉姓を与えられたのちは柏木安則を称した。
1848(嘉永元)年、将軍家作事方として江戸城の普請に携わることとなった柏木高光は名主格名字帯刀を許され〈矢内〉の姓を賜り矢内高光となった。高光は江戸城内諸建築の普請のほかに八王子の高尾山薬王院や伊勢原の雨降山大山寺などの建築物造営に関与したほか、地元である愛甲郡をはじめ近隣の厚木や津久井、相模原、また、寒川や茅ヶ崎、平塚など各所の社寺建築や神輿、屋台の造営の指揮を執り、1907(明治40)年に歿している。
高光の長弟・佐仲郎(1823-92)は同族の柳川匠家の養子となり、次弟・佐文治(1829〜1900)は小田原藩大久保家お抱え大工棟梁・香川匠家に入籍し香川高之を称し、それぞれ矢内匠家の普請にも協力した。また、矢内匠家の十五代目は高光の長子・稲太郎(1848〜1912)が継ぎ、次男・亀五郎(1860〜1941)は隣村・三増村の旧家・後藤家に養子に入り後藤亀五郎光芳の名で彫刻技能を活かし矢内匠家の仕事に貢献した。


■共催展 藤沢市・茅ヶ崎市・寒川町資料展
「湘南に残る匠の技 宮大工の世界」
会期:2012年9月8日(土)〜11月4日(日)