今月の1点 Monthly Pickup 7月
 
 

        
           「名優 九代目 市川團十郎」 


三代 歌川国貞(さんだい・うたがわくにさだ 1848〜1920)

1903(明治36)年 木版(多色)・紙〔大判錦絵三枚続〕 36.6×72.3cm


三代 歌川国貞《名優 九代目 市川團十郎》1903年
 

五代目尾上菊五郎、初代市川左團次とともに〈團・菊・左〉として明治の歌舞伎界を牽引し、〈劇聖[げきせい]〉と称されて当時の演劇界の頂点に立っていた、九代目市川團十郎の死絵[しにえ]です。
死絵とは、人気戯作者[げさくしゃ]や人気絵師など世間の耳目をあつめる人物がなくなった際、その姿を描き、歿年月日や享年、戒名、墓所、辞世の句や追善の歌や句を添えた浮世絵版画(錦絵)をいいますが、その大部分を占めるのは、なにをおいても歌舞伎役者のものでした。
さて、この作品、一枚物がほとんどの死絵にあって、異例ともいえる三枚続[さんまいつづき]の大作。台上に臥す團十郎を中心に幽明を異とする総勢58名の役者や芝居関係者が登場する画面構成は、釈迦入滅時にその死を嘆き悲しむ仏弟子や菩薩、動物などの姿を描いた〈涅槃図[ねはんず]〉や、臨終間際の者を阿弥陀如来や菩薩などがお迎えにくる〈来迎図[らいごうず]〉を彷彿とさせます。
まずは九代目團十郎を囲むように居並ぶ、九代目歿時に在世中であった人々をみてみます。
ここには、明治歌舞伎界最後の重鎮であり、〈團・菊〉歿年の翌年の1904(明治37)年にふたりのあとを追うように他界した初代市川左團次は勿論、一度は破門されながらも復帰し、1905(明治38)年の九代目市川団十郎三回忌追善興行にて一門を代表して口上を述べた初代市川猿之助や、次女・扶伎子[ふきこ/芸名・二代目市川旭梅]の夫の五代目市川新之助ら市川一門の役者のほか、のちに七代目松本幸四郎となる八代目市川高麗蔵[こまぞう]や五代目中村歌右衛門となる五代目中村芝翫[しかん]、十五代目市村羽左衛門となる十代目市村家橘[かきつ]や六代目尾上菊五郎、六代目尾上梅幸など、〈團・菊・左〉なきあとの歌舞伎界を担う役者たちが描かれているはずです。しかし、このなかで名前が示されているのは「嗣子 福三郎」のみです。この福三郎とは九代目の長女・實子[じつこ/芸名・二代目市川翠扇]の夫で市川家(堀越家)に婿養子として入籍した人物です。元銀行員だった彼は1910(明治43)年に突然役者を志し堀越福三郎の名で上方歌舞伎の実力者・初代中村鴈次郎のもとで修業。1917(大正6)年に五代目市川三升[さんしょう]を襲名、以降は〈歌舞伎十八番〉のなかで上演が途絶えていた演目の復活上演にとりくみました。歿後、のちに十一代目團十郎となる養子・九代目市川海老蔵[えびぞう]により十代目市川團十郎の名跡が贈られました。
一方、九代目逝去以前に鬼籍にはいっていた役者や芝居関係者たちは画面上方に並んでいます。
中央より右手の役者陣は左から順に、五代目尾上菊五郎、四代目中村芝翫、四代目助高屋高助、初代坂東家橘、三代目中村仲蔵、八代目岩井半四郎、初代助高屋小伝次、二代目尾上菊之助、二代目坂東秀調、九代目團十郎を継ぐことを期待されながらも眼疾のため37歳で亡くなった五代目市川新蔵、八代目市川海老蔵、五代目沢村宗十郎、五代目市川門之助、三代目沢村国太郎の面々。
つぎに中央より左手に並ぶ芝居関係者は右から順に、実業家で歌舞伎座創立時の座主であった千葉勝五郎。二代目河竹新七の名で数々の名作を生みだした歌舞伎(狂言)作者・黙阿弥。守田座(のち新富座)の座主で天覧歌舞伎実現に奔走した十二代目守田勘弥。九代目と親しかった噺家・初代談洲楼燕枝。戯作者であり、作家、新聞記者でもあった仮名垣魯文。役者絵を得意とした浮世絵師・豊原国周。そして長唄の三味線方で作曲の名人といわれた二代目杵屋勝三郎です。
さて最後に主人公である「名優 九代目 市川團十郎」。
七代目市川團十郎の五男として誕生し、生後まもなく河原崎座座元の六代目河原崎権之助の養子とされ三代目河原崎長十郎[ちょうじゅうろう]の名で早朝から夕方まで休みなしの稽古漬けの日々をおくります。1852(嘉永5)年の初代河原崎権十郎[ごんじゅうろう]襲名の二年後、当時空前の人気を誇っていた実兄の八代目市川團十郎が大坂で自殺、九代目襲名の重みが権十郎のうえにのしかかります。1869(明治2)年に前年強盗に惨殺された養父の名跡を継ぎ七代目河原崎権之助を襲名しますが1873(明治6)年には先代権之助の実子に八代目権之助を譲り自らは河原崎三升[さんしょう]となります。翌1874(明治7)年、養家の悲願であった河原崎座の再興をなしとげたのち、市川家に復帰し、九代目市川團十郎を襲名しました。
その後は歌舞伎の近代化(演劇改良)と役者の地位向上に力を注ぎますが、史実重視の演出や装束による時代物狂言は多くの観衆にはうけいれられず、なかば軽蔑的に〈活歴[かつれき]〉と呼ばれました。やがて1889(明治22)年に歌舞伎座が開場すると、九代目は座頭としてここを拠点とし、1894(明治27)年頃からは古典歌舞伎をさかんに上演するようになり、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次らと歌舞伎の黄金時代を築きあげました。
1897(明治30)年、釣が好きだった九代目は高座郡松林村(現・茅ヶ崎市)に別荘・孤松庵を設けます。敷地内には稽古場を備え、ここで次世代の歌舞伎界を担う若手を育成しました。
そして1903(明治36)年。2月に歿した五代目尾上菊五郎の遺志により、同年3月に五代目の遺児である六代目尾上菊五郎、六代目尾上榮三郎兄弟の襲名を後援、5月の舞台頃から健康がすぐれず、7月13日に茅ヶ崎に転地して療養につとめましたが二ヵ月後、当地で歿しました。

作品の上部左端の書込みです(漢字は新字体にしました)。

贈大教正 玉垣道守彦靈
行年六十六歳 俗姓名 堀越秀
相州茅ヶ崎松林村小字濱須賀於孤松庵
明治三十六年九月十三日午後三時四十五分死去ス
青山共葬墓地ヘ埋葬ス


九代目逝去のおり、茅ヶ崎駅から孤松庵までの経路を整備し、大磯に伊藤博文を訪ねて弔辞を依頼するなど、敬愛する九代目の葬儀準備に奔走したのは茅ヶ崎に住む新派俳優・川上音二郎でした。

(美術館 N.Y )

※この作品は2012年7月24日(火)〜8月31日(金)の
夏季収蔵作品展―人物アレコレ―に出品しています


<略歴 >
1848(嘉永元)年、江戸日本橋にうまれ深川で育つ。本名・竹内栄久(幼名・朝太郎)。1858(安政5)年に三代歌川豊国に入門するが1864(元治元)年の師・豊国歿後は二代歌川国貞(のちの四代歌川豊国)に学んだ。はじめ四代歌川国政を称したが、1889(明治22)年に三代歌川国貞を襲名、香朝楼と号した。別号に梅堂、豊斎、芳斎などがある。開化絵、役者絵が多く、とくに初代市川左團次の似顔を得意とした。1920(大正9)年10月26日、歿。



九代目市川團十郎[いちかわ・だんじゅうろう/1838(天保9)〜1903(明治36)]
五代目尾上菊五郎[おのえ・きくごろう/1835(天保6)〜1903(明治36)]
初代市川左團次[いちかわ・さだんじ/1842(天保13)〜1904(明治37)]
初代市川猿之助[いちかわ・えんのすけ/1859(安政6)〜1922(大正11)年]
二代目市川旭梅[いちかわ・きょくばい/1883(明治16)〜1947(昭和22)]
五代目市川新之助[いちかわ・しんのすけ/1885(明治18)〜1956(昭和31)]
七代目松本幸四郎[まつもと・こうしろう/1870(明治3)〜1949(昭和24)]
五代目中村歌右衛門[なかむら・うたえもん/1886(慶應元)〜1940(昭和15)]
十五代目市村羽左衛門[いちむら・うざえもん/1874(明治7)〜1945(昭和20)]
六代目尾上菊五郎[おのえ・きくごろう/1885(明治18)〜1949(昭和24)]
六代目尾上梅幸[おのえ・ばいこう/1870(明治3)〜1934(昭和9)]
二代目市川翠扇[いちかわ・すいせん/1881(明治14)〜1944(昭和19)]
初代中村鴈次郎[なかむら・がんじろう/1860(安政7)〜1935(昭和10)]
十代目市川團十郎[いちかわ・だんじゅうろう/1880(明治13)〜1956(昭和31)]
十一代目市川團十郎[いちかわ・だんじゅうろう/1909(明治42)〜65(昭和40)]
四代目中村芝翫[なかむら・しかん/1831(天保2)〜99(明治32)]
四代目助高屋高助[すけた(だ)かや・たかすけ/1838(天保9)〜86(明治19)]
初代坂東家橘[ばんどう・かきつ/1847(弘化4)〜93(明治26)]
三代目中村仲蔵[なかむら・なかぞう/1809(文化6)〜86(明治19)]
八代目岩井半四郎[いわい・はんしろう/1829(文政12)〜82(明治15)]
初代助高屋小伝次[すけた(だ)かや・こでんじ/1884(明治17)〜99(明治32)]
二代目尾上菊之助[おのえ・きくのすけ/1868(慶應3・明治元)〜97(明治30)]
二代目坂東秀調[ばんどう・しゅうちょう/1848(嘉永元)〜1901(明治34)]
五代目市川新蔵[いちかわ・しんぞう/1861(万延2)〜97(明治30)]
八代目市川海老蔵[いちかわ・えびぞう/1845(弘化2)〜86(嘉永6)]
五代目沢村宗十郎[さわむら・そうじゅうろう/1802(享和2)〜53(嘉永6)]
五代目市川門之助[いちかわ・もんのすけ/1821(文政4)〜78(明治11)]
三代目沢村国太郎[さわむら・くにたろう/生年不詳〜1885(明治18)頃]
千葉勝五郎[ちば・かつごろう/1833(天保4)〜1903(明治36)]
二代目河竹新七[かわたけ・しんしち/1816(文化13)〜93(明治26)]
四代目市川小團次[いちかわ・こだんじ/1812(文化9)〜66(慶應2)]
十二代目守田勘弥[もりた・かんや/1846(弘化3)〜97(明治30)]
初代談洲楼燕枝[だんしゅうろう・えんし/1837(天保8)〜1900(明治33)]
仮名垣魯文[かながき・ろぶん/1829(文政12)〜94(明治27)]
豊原国周[とよはら・くにちか/1835(天保6)〜1900(明治33)]
二代目杵屋勝三郎[きねや・かつさぶろう/1820(文政3)〜96(明治29)]
六代目河原崎権之助[かわらざき・ごんのすけ/1814(文化11)〜68(明治元)]
六代目尾上榮三郎[おのえ・えいざぶろう/1886(明治19)〜1938(昭和13)]
川上音二郎[かわかみ・おとじろう/1864(文久4)〜1911(明治44)]

歌舞伎十八番[かぶきじゅうはちばん]
五代目市川海老蔵(七代目市川團十郎)が1840(天保8)年に市川家の家の芸として選定した18の演目。
・不破[ふわ] 初演:1680(延宝8)年/初代市川團十郎
・暫[しばらく] 初演:1697(元禄10)年/初代市川團十郎
・不動[ふどう] 初演:1697(元禄10)年/初代市川九蔵(二代目市川團十郎) ■
・嫐[うわなり] 初演:1699(元禄12)年/初代市川團十郎 ■
・象引[ぞうひき] 初演:1701(元禄14)年/初代市川團十郎 ■
・勧進帳[かんじんちょう] 初演:1702(元禄15)年/初代市川團十郎
・助六[すけろく] 初演:1713(正徳3)年/二代目市川團十郎
・鳴神[なるかみ] 初演:1716(貞享元)年/初代市川團十郎
・外郎売[ういろううり] 初演:1718(享保3)年/二代目市川團十郎
・押戻[おしもどし] 初演:1727(享保12)年/二代目市川團十郎 ■
・矢の根[やのね] 初演:1729(享保14)年/二代目市川團十郎
・景清[かげきよ] 初演:1732(享保17)年/二代市川團十郎
・関羽[かんう] 初演:1737(元文)年/二代目市川團十郎 ▲
・七つ面[ななつめん] 初演:1740(元文5)年/二代目市川團十郎 ■
・毛抜[けぬき] 初演:1742(寛保2)年/二代目市川團十郎
・解脱[げだつ] 初演:1760(宝暦10)年/四代目市川團十郎 ■
・蛇柳[じゃやなぎ] 初演:1763(宝暦13)年/四代目市川團十郎 ▲
・鎌髭[かまひげ] 初演:1774(安永3)年/四代目市川團十郎
(■印は十代目市川團十郎が復活上演し自演、▲印は別の役者が演じたもの)