今月の1点 Monthly Pickup 11月
 
 

  
   《川上音二郎 戦地見聞日記

             名古屋清水町小島邸之塲》




三代 歌川国貞 (さんだい・うたがわくにさだ)
( 1848‐1920 )作


1894(明治27)年
木版(多色)・紙〔大判錦絵三枚続〕


川上音二郎 戦地見聞日記
 

 日清戦争の端緒となった豊島(ほうとう)沖海戦がおこなわれたのが1894(明治27)年7月25日、つづく29日には朝鮮の首都・京城(現在のソウル)南方の成歓(せいかん/ソンファン)を舞台に日清陸軍の交戦がありました。同月31日、日本政府は各国公使に交戦通告書を交付、翌8月1日には明治天皇による「清国ニ対スル宣戦ノ詔勅」が発せられ、日本は国を挙げて「近代国家」となってはじめての大規模な対外戦争にとりくむこととなりました。
 開戦直後の8月はじめ、当時30歳の川上音二郎は日清戦争を題材とした芝居の脚本認可を警視庁に申請、8月21日に認可を受け、川上一座は同月31日から〈壮絶快絶 日清戦争〉を浅草座で上演します。実際の戦況とはかけはなれた内容でしたが、若者たちが体当たりで演じる大活劇はおおいに評判をとりました。10月7日までこの芝居を打った音二郎は同月22日に戦地視察に出発、朝鮮の仁川や平壤、鴨緑川を渡り清国内の九連城にまで足をのばして一ヵ月後に帰国。このときの見聞をとり込んで仕上げたものが、この作品に描かれた〈川上音二郎 戦地見聞日記〉で、12月3日から23日まで市村座で上演されました(翌年1月、横浜・港座でも公演)。
 描かれた場面は、本人演じる「戦地視察俳優・川上音二郎」が九連城の兵站部において、傷を負った小島中尉から託された手紙を内地の家族に届ける場面(五幕目)ですが、小島中尉は手紙を渡した数時間後に亡くなったため「音二郎」は夫人に中尉の戦死をも告げなくてはなりませんでした。
 川上一座の呼び物であった体を張った戦闘(乱闘)シーンとは対照的な愁嘆場を盛り込んだ〈川上音二郎 戦地見聞日記〉の盛況ぶりと演劇界への影響について、劇作家で小説家の岡本綺堂は次のようにしるしています。

    川上音二郎は浅草座で好成績を占めると、すぐに従軍許可願の運動
   に着手して、ともかくも朝鮮まで出かけて行った。そうして「川上音二郎
   従軍日記」とかいう看板(註) をあげて、市村座で第二回の戦争劇を開園
   すると、これがまた大当りに当たった。なにしろ戦場の実地を見とどけて
   来て、それをすぐに舞台にのせるというのであるから、どこまでが嘘か
   本当か、そんな見分けも付かずに観客はただむやみに喝采した。
    これで書生芝居も一種の新しい劇として、あまねく世間からその存在
   をみとめられるようになって、わが劇界には歌舞伎と新派劇の二つの
   王国ができた。
                         (『明治劇談 ランプの下にて』より)

    (註) 〈川上音二郎 戦地見聞日記〉のこと。

■企画展「音二郎没後100年・貞奴生誕140年記念 川上音二郎・貞奴展」
会期:2011年9月10日(日)〜11月27日(日)

(美術館 N.Y )

< 略歴 >
1848(嘉永元)年、江戸日本橋にうまれ深川で育つ。本名・竹内栄久(幼名・朝太郎)。1858(安政5)年に三代歌川豊国に入門するが1864(元治元)年の師・豊国歿後は二代歌川国貞(のちの四代歌川豊国)に学んだ。はじめ四代歌川国政を名乗ったが、1889(明治22)年に三代歌川国貞を襲名、香朝楼と号した。
別号に梅堂、豊斎、芳斎などがある。開化絵、役者絵が多く、とくに初代市川左團次の似顔を得意とした。1920(大正9)年10月26日、歿。