今月の1点 Monthly Pickup 10月
 
 

        
                「 婦女群像 」


速水 御舟 (はやみ ぎょしゅう) ( 1894‐1935 )作

1934(昭和9)年、絹本墨画彩色/額装
219.0×308.7センチメートル
個人蔵


速水御舟《婦女群像》
 

 ローマ日本美術展覧会での美術使節として渡欧し、ヨーロッパを巡遊した御舟は、帰国翌年の1931(昭和6)年に畳に座す弥(いよ)夫人をモデルとした二点組の作品「女二題」を制作し、翌32(同7)年には椅子に腰掛け編物をするうら若き女性を題材とした「花の傍」を、そして33(同8)年は同年5月の朝鮮旅行の産物である「青丘婦女抄」(5点組)を描き、日本美術院展覧会(院展)に出品しています。
 1920(大正9)年の「京の舞妓」以来、人物画から遠ざかっていた御舟が、たて続けに人物画の大作にとりくんだ理由は、訪欧中に「(畳に)座居する我々の習性に特殊な感銘を抱いた」ことや、ヨーロッパ美術を体感したことなどがあげられます。
 そして、人物画の集大成ともいうべき作品が、この「婦女群像」です。
 けれども、この作品が完成することはありませんでした。
 画面右側中央から作品の中心部にかけて斜めにはしる二本の線。これは作品を描くときにもちいた乗り板(のりいた)から出た脂(やに)の跡です。
 油彩画とは異なり、画面を水平に置いて制作する日本画では、大きな作品を描く際には乗り板の上にひざまずいて筆をすすめてゆきます。
 この板からにじみ出た脂はどのようにしても除去することはできず、ついには制作の継続を断念することとなったのです。
 しかし、この作品のためにつくられたスケッチ類や大下図などは処分されることはなく、画家の手元に保管されました。それはいつの日にかこの作品を完成させようという意思があったからではないでしょうか。
 ところが、制作断念からおよそ半年後の1935(昭和10)年3月20日、速水御舟は病のためこの世を去り、この作品は永遠に未完成作として残されることとなったのです。
 この作品は、10月17日まで開催中の企画展「速水御舟展―茅ヶ崎と御舟―」に展示しています。

(美術館 N.Y )

< 略歴 >
東京・浅草生まれ。1908(明治41)年、14歳で松本楓湖(ふうこ)の安雅堂(あんがどう)画塾に入門。兄弟子の今村紫紅(しこう)に兄事する。1911(明治44)年、安田靫彦、今村紫紅らの紅児会(こうじかい)に参加。14(大正3)年、紫紅を中心とした赤曜会を結成。研鑽を積む。17(同6)年、日本美術院同人となる。1935(昭和10)年、腸チフスのため逝去。
1977(昭和52)年、「炎舞」、「名樹散椿」の二作品が重要文化財の指定を受ける。