今月の1点 Monthly Pickup 4月
 
 

       
             「 東京風景 弁慶橋 」


土屋 光逸 (つちや こういつ) ( 1870‐1949 )作

1933年、木版(多色)・紙、36.2×23.9センチ


土屋光逸《東京風景 弁慶橋》
 

 静かな春の宵です。
 橋を渡った向こう側、そのまま奥へ奥へと誘うように、満開の桜が並んでいます。
 日中と違い、ややもするとその魔性を際立たせることになる夜桜ですが、街路灯の少し黄みがかった光の柔らかさのせいでしょうか、画面の桜の美しさは正気を失わず、優しく可憐な薄紅の色で宵闇を彩っています。
 ただ、目を凝らせばちらほらと道行く人々の姿が見えますが、それらはまるで薄い影のようにさらりと描かれ、少なくとも夜桜見物の賑わいといった風情からはほど遠い雰囲気。もしそれらが真に影であり、実体のないものだとすれば、画面の桜はたちまちに、水を湛えた堀とそこに架かる橋という他の舞台装置とともに、幽明の境の判然としない世界への導き手ともなり得ます。
 この「弁慶橋」を含む「東京風景」シリーズは全十二景、昭和初期に土井版画店を版元として版行されました。これは雨の銀座、雪の根津神社等々、四季折々の東京の景勝を描いたもので、なかでもこの作品は、夜桜という題材自体の持つ神秘性、物語性の故もあってか、鑑賞者の想像力を刺激するような幻想的な美しさを有しています。
 現在の弁慶橋は昭和後期に改築されたコンクリート橋で、現存する江戸城外濠の一つである弁慶濠を跨ぎ、赤坂見附の交差点と紀尾井町を結んでいます。
 高層ビルの建ち並ぶ都会の真ん中にあってなお外観は旧態をとどめ、春には濠沿いの桜が華やかさを添えて、通りかかる人々の目を楽しませます。時代が移り変わっても、こういった情景に惹きつけられる人の心の動きはそう変わるものではないのでしょう。
 この作品は、現在開催中の春季収蔵作品展にて展示されています。展覧会期は6/13までですが、本作は展示替えにより4/25までの展観となります。

(美術館 J.K. )

< 略歴 >
1870年、現在の静岡県浜松市に生まれる。本名は佐平。84年上京、寺修行ののち印刻師の門弟となる。86年小林清親の内弟子となり、以後十数年家族同様に生活(1903年結婚、小林家を離れる)。1918年再婚、22年夫人の郷里である現在の茅ヶ崎市南湖に転居。32年、現代創作木版画展覧会(渡邊版画店主催)に出品。以後土井版画店、渡邊版画店等より作品刊行。また、版画の原画のみならず肉筆画も制作。作品は海外に輸出されたが、戦争により注文がなくなり、終戦前後には戦死した兵隊たちの肖像画を描くなどして生計を立てた。49年、肺炎のため茅ヶ崎の自宅で逝去。99年、茅ヶ崎市美術館企画展「風光礼讃 土屋光逸展」開催。