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今月の1点 Monthly Pickup 4月

《西南雲晴朝東風》 豊原国周(とよはら・くにちか 1835~1900)

(読み方:おきげのくもはらうあさごち)
1883(明治16)年 大判錦絵三枚続    縦360×横720(cm) 《茅ヶ崎市美術館蔵》

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一時代を画した芸能人が死んだ瞬間、社会全体が暗くなってしまったように感じるのは今も昔も変らないのだろう。映画俳優がまだ存在しない明治期には歌舞伎俳優が人々の最大の関心事だった。中でも劇聖と崇められた九代目市川團十郎の死が世相に及ぼした影響は想像にあまりある。明治36(1903)年九代目は64歳で茅ヶ崎浜須賀の別荘「孤松庵(こしょうあん)」で没したから相州茅ヶ崎村の名が全国に知られることになった。爛々(らんらん)と輝く眼、朗々と響く声で劇場を支配した名優について各界の名士は口を揃え同時代を過ごしたことの幸せを語っている。
今年は九代目團十郎生誕180周年を迎えると同時に明治150年にもあたるのだが明治という時代すべてを代表してひとり引き受けるほどの個性をこの役者は持っていたのかもしれない。

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左:井上安治《新富座》 1881-89(明治14-22)年 木版(多色)・紙 / 右:西條高盛に扮する九代目市川團十郎


江戸末期、庶民随一の娯楽であった芝居(歌舞伎)を明治期に政府主導の下、国民の演劇に昇華させる運動の中心的役割をはたしたのが九代目市川團十郎だった。おりしも開場した東都一の劇場「新富座」(「浮世絵・新版画展」展示中の井上安治作品参照)を舞台に新時代にふさわしい演劇の改良運動が始まったのだが選ばれた主なる演目として新国家が経験した内外の事件があった。社会で起こっていることを市民に知らせる今日のニュース動画のような役割か。さらにこれら名優が演じる舞台のイメージが日本の誇る木版技術により錦絵に写され、芝居と錦絵両方を好む市民の話題となった。

《西南雲晴朝東風》で41歳の團十郎が演じた西條高盛とはいうまでもなく実在の西郷隆盛を憚(はばか)った役名。明治10(1877)年勃発した西南戦争に取材し終戦後すぐに河竹黙阿弥により戯曲化、新富座で上演。80日間という明治期としては記録的なロングランを達成した。この時代、戊辰、西南、日清、日露の各戦争の話題は開戦とほぼ同時に舞台化されている。その内容はあくまでも国家の意思を代弁するものではあっただろうが、舞台上、火薬やラッパの演出でリアルに再現された戦闘シーンは観衆を興奮させたことだろう。豊原国周が描くこの錦絵は戦(いくさ)に志願する薩摩の少年たちを西条高盛が諌め、日本の未来を担うお前たちは命を無駄にするなと諭しているところ。観客の情に訴え泣かせるシーンなのだろう。團十郎はいわゆる腹芸、沈黙による複雑な心理表現に長けていたといわれるがその幾ばくかがこの国周の錦絵からも伺えるのではないだろうか。

このように団・菊・左(團十郎と五代目尾上菊五郎、初代市川左団次)が活躍した明治期の歌舞伎はこの時代の現代演劇で、ザンギリ頭と洋装で演じられることも珍しくなかったのだ。しかし老境に近付きつつあった團十郎の歌舞伎改良運動は長続きしなかった。時代をリアルに写すのであれば俊敏な身体能力を有す若者たちにはかなわない。その決定的な転換をもたらしたのが川上音二郎一座の「日清戦争劇」でその速度と迫真力が歌舞伎の様式をはるかに凌駕したために以後、歌舞伎は新劇と棲み分け、型を継承する古典芸能の道をたどるようになる。同じ茅ヶ崎村で隣同士だった九代目と九代目に親炙(しんしゃ)した音二郎だったが、実に二人は日本近代演劇新旧分かれ目の当事者でもあったのだ。

 

※開館20周年を記念して年間を通し開催される「版の美-板にのせられたメッセージ」第一期「浮世絵・新版画 幕末~昭和」(会期:2018年4月9日~5月13日)で、九代目團十郎が河原崎権十郎を名乗っていた若い頃の芝居絵から茅ヶ崎孤松庵での最期を描いた「死に絵」まで辿る事ができます。 

 

(美術館 M.O) 

<略歴 >

豊原国周(とよはら・くにちか) [1835(天保6)年~1900(明治33)年]
幕末~明治期の浮世絵師。江戸京橋に生まれる。豊原周信と三代目歌川豊国に師事、役者絵を得意とした。役者似顔大首絵、三枚続の役者絵に個性を発揮した。画号は国周の他、一鶯斎、豊春楼、花蝶斎、花蝶楼、華蝶斎、華蝶楼など。門人に楊洲周延がいる。

 

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