今月の1点 Monthly Pickup 2月

《黄色い電柱》 萬 鐵五郎(よろず・てつごろう 1885~1927)

(読み方:きいろいでんちゅう)
1910(明治43)年 油彩、板 13.7×10.5cm 《茅ヶ崎市美術館蔵》

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1905年パリで開かれたサロン・ドートンヌにおいて、マルケが出品した子どものトルソ像を取り囲むように周囲の壁に展示された、マティス、マルケ、ルオー、ヴラマンク、ドランらの作品群の原色を多用したあまりに激しい色使いや荒々しいタッチから、批評家ルイ・ヴォークセルが揶揄するように記述した「まるで野獣(フォーヴ)に囲まれたドナテルロ」との言葉から端を発した「フォーヴィスム」は瞬く間に多くの画家に影響を与えたが、理論的な絵画運動ではなかった。特にグループの結成を目指したわけではなく、たまたま同じような表現を展開していた彼らに共通していたのは、固有色の否定と画家の主観に基づいた純粋な造形性の追求である。2年ほど経た後、熱病から覚めたように彼らは各々の異なる道を進むことになるが、フォーヴィスムの余波は日本にも波及し、日本人独自の油彩表現を試みていた多くの若い画家たちを刺激した。とりわけ1912(大正元)年フュウザン会を結成した岸田劉生、萬鐵五郎にその共鳴の跡が認められる。
萬鐵五郎は、日本においてはかなり早い時期にフォーヴィスム絵画に接近し、後にヨーロッパのキュヴィスムと軌を一にするかのような絵画表現を独自に展開したことで、日本の近代絵画史上最も重要な画家の一人として数えられている。肺結核と神経衰弱の療養のために1919年に茅ヶ崎に転居し、この地で終焉を迎えた。

今回紹介する作品《黄色い電柱》は1910年、萬がまだ東京美術学校西洋画科の学生の時に描いたものである。1905年のサロン・ドートンヌからわずか5年でこれだけ完成度の高いフォーヴィスム絵画が学生の手によって描かれたことに驚かされる。萬の表現主義的な絵画は一見現実離れしているため、実景に即していないと思われがちだが、よくよく調べてみると、案外萬の生活圏内で日常的に目にした実景に基づいていることが分かってきている。この電柱も萬が暮らした小石川区宮下町(現在の文京区千石)に実際にあった電柱であろう。翌年から翌々年頃にかけて制作された《落暉(荷車ひきのいる風景)》(桜地人館所蔵)では日没寸前の夕陽によって朱色に燃え上がる電柱を描いている。黄昏が訪れる時刻、電柱も周囲の光線を吸収して鮮やかな黄色を呈していたかもしれない。前年に結婚し、愛しい息女を得たばかりの萬の目には、ただの電柱も輝かしい未来を暗示する黄金の塔に見えたのだろう。背景に咲く花はツツジであろうか。今を盛りに花開いている。電柱の黄色の補色として対比を生み出す濃い群青色の背景は、ゴッホが描く夜空の色を思わせる。

※この作品は茅ヶ崎市美術館で開催中の「春季収蔵作品展 ―花染め―」(2018年2月11日~3月18日)に出品されています。

 

(美術館 T.T) 

<略歴 >

岩手県東和賀郡十二ヶ村(現・花巻市東和町土沢)に生まれる。18歳で上京し、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。1912年、同校卒業。同年、岸田劉生らが結成した「フュウザン会」に参加し、フォーヴィスムの影響による強烈な色彩と大胆な筆触をもって近代的な画風を展開、のちにキュビスムの造形探求へと変化していく。1919年、茅ヶ崎へ転居。この頃より、日本の伝統絵画へ関心をもち始め、油彩画のほか南画も描くようになる。1926年に長女登美を亡くしてから健康を害し、翌1927年、茅ヶ崎にて死去する。

 

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