• ホーム
  • 今月の1点
  • 《 浅草金龍山 》 土屋光逸 (つちや・こういつ 1870~1949)

今月の1点 Monthly Pickup 2月

《 浅草金龍山 》 土屋光逸 (つちや・こういつ 1870~1949)

1938(昭和13)年 木版(多色)、紙 縦39.2×横25.8(cm) 《茅ヶ崎市美術館蔵》

 

2017_2gatsu_400.jpg

昭和という時代に身を置きながら、眼前の東京の景色に江戸ならではの情緒を追求して描いた絵師・土屋光逸にとって、浅草金龍山こと浅草寺のたたずまいは、懐かしく、いかにも江戸らしい風景の一つとして好まれたに違いない。

浅草寺を描いた絵師としてまず筆頭にあげられるのは歌川広重であろう。江戸の景勝地としてはもちろん、江戸に暮らす広重自身の身近な風景として数多く取り上げ、江戸町人の圧倒的な共感を呼んだ。光逸もそうした先例は当然ながら知っていたと思われる。しかし、近代化に伴って普及した、西洋絵画教育の影響を受けたその作風は、広重よりもはるかに現実の景観に即した写実的な描写を特徴としている。
浅草金龍山の縁起は古く、飛鳥時代の後期、推古天皇時代の西暦628年だそうである。宮戸川(現在の隅田川)で漁をした際に網にかかった聖観音仏像が本尊である。本作品に描かれる五重塔は942(天慶5)年、武蔵守・平公雅が平将門の乱によって荒らされた浅草寺を再建した際に建立されたもので、当初は三重の塔であったといわれ、焼失を繰り返した後、江戸時代の1648(慶安元)年に現在の位置とは異なる本堂の東側、すなわち右側に建てられた。広重が描いた浅草寺および五重塔はそうした位置関係に基づいているため、現在の我々が見る時に違和感を覚えることもある。東京大空襲によって失われ、長く再建されなかったが、1973(昭和48)年、アルミ合金瓦をまとった鉄筋コンクリート造りの頑強な建築物として生まれ変わり、本堂の左側に建立された。当然ながら光逸が描いた五重塔は木製、陶器の瓦屋根を持つ伝統的なもので、1938年という戦争の足音が近づいてくる時世においても、いや、むしろそのような時代だからこそ江戸の名残を色濃く残す風情に、強い哀愁を感じていたのではないだろうか。写実的な表現ながら、画面に小さく登場する人物は、江戸の町人そのままの大工と町娘の姿である。満月のもと澄み切った月明かりの下でふたりは何を語り合っているのだろうか。

(美術館 T.T)

この作品は収蔵作品展「2017・春季収蔵作品展」[会期:2017年2月12日(日)~2017年3月26日(日)]に展示されています。

 

<略歴 >

1870(明治3)年、現在の静岡県浜松市に生まれる。本名は佐平。84年上京、寺修行ののち印刻師の門弟となる。86年小林清親の内弟子となり、以後十数年家族同様に生活(1903年結婚、小林家を離れる)。1918(大正7)年再婚、22年夫人の郷里である現在の茅ヶ崎市南湖に転居。32年、現代創作木版画展覧会(渡邊版画店主催)に出品。以後土井版画店、渡邊版画店等より作品刊行。また、版画の原画のみならず肉筆画も制作。作品は海外に輸出されたが、戦争により注文がなくなり、終戦前後には戦死した兵隊たちの肖像画を描くなどして生計を立てた。49(昭和24)年、肺炎のため茅ヶ崎の自宅で逝去。99(平成11)年、茅ヶ崎市美術館企画展「風光礼讃 土屋光逸展」開催。

 

<< 1月