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《 水着姿 》 萬鉄五郎(よろず・てつごろう 1885~1927)

1926(大正15)年 油彩・キャンバス 縦117.7×横81.2(cm) 《岩手県立美術館蔵》

 

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岩手県東和賀郡十二ヶ村(通称土沢・現在の花巻市東和町土沢)に出生した萬鉄五郎は、1902(明治35)年17歳で進学目的を名目に上京した。その後東京美術学校で西洋絵画を学び、卒業制作としてゴッホやマティスの影響を感じさせる《裸体美人》(東京国立近代美術館蔵)を残し、国内の前衛画家の最前線に躍り出た。ヒュウザン会(のちにフュウザン会に名称変更)などに意欲的な作品を発表する一方、雑誌の挿画や芝居のポスターなどを手がけ、短期志願兵として軍隊に入営するなど多忙を極めた。そうした生活から萬自身「制作にうえる事になったので」(「私の履歴書」『中央美術』1925年11月号)1914(大正3)年、郷里の土沢に戻り、内省的に造形的な探求を試みた。生活のほとんどを制作に費やすような集中的な取り組みから一定の満足を得たのであろう。再び上京しその成果を示した。代表作《もたれて立つ人》(東京国立近代美術館蔵)が二科展に発表されたのもこの頃である。国内で最も早いキュヴィスム絵画の成功例として認められたが、制作や度重なる客人の来訪、生活費を稼ぐための仕事などで次第に神経衰弱を病み、肺結核にも冒された。 1919(大正8)年、萬はそうした病の療養のため、東洋一のサナトリウム「南湖院」を有するほど温暖な気候で知られる茅ヶ崎の地に転居した。療養が功を奏し、次第に体調を回復した萬は東洋絵画、とりわけ南画の研究に没頭し、執筆活動も精力的に行い、萬の芸術人生の中でも特に充実した時間を過ごした。この作品はそうした茅ヶ崎時代の最終期に制作されたもので、人物の黄色、赤と緑の組み合わせと背景の水色、茶色といった単純な色面で構成され、太い輪郭線による表現がゴーギャンに代表されるポスト印象派の様式クロワゾニスムを連想させるが、土着的な作風は萬独自のものと言って良いだろう。モデルが着ている、当時のモダンガールが愛用した洒落た水着は萬自身探し求めて横浜で購入したものと言われている。モデルは萬の夫人が紹介した栗林ハツ。彼女自身も絵を学び、やがて画家になった(のちに長谷川ハツ)。背景に見える烏帽子岩が茅ヶ崎らしさを感じさせる。波頭の形態は東洋絵画に見られる様式化された表現を採用しており、東洋絵画と西洋絵画の両方を追求したひとつの到達点を示すものとして興味深い。今後どのような展開が生まれるか、期待が持てる作品だが、残念ながらこの作品が発表された1927(昭和2)年の第5回春陽会展の会期中、悪化した肺結核により突然亡くなった(5月1日)。あたかも前年12月、享年16歳という若さで膀胱結核が原因で没した長女登美の後を追うように。

この作品は11月3日まで「萬鉄五郎生誕130年 棟方志功没後40年 棟方志功 萬鉄五郎に首ったけ」に展示されています。

(美術館 T.T)

<略歴 >

萬鉄五郎(よろず・てつごろう 1885~1927)
岩手県東和賀郡(通称土沢)に生まれた。幼少時より絵を好み、日本画や大下藤次郎の『水彩画之栞』によって水彩画を学んだ。1903(明治36)年上京早稲田中学校に編入学した。卒業後、臨済宗の釈宗活禅師の布教活動にともない渡米。美術学校で学ぼうとするもののサンフランシスコ大地震の影響で断念した。1907(明治40)年東京美術学校西洋画科に入学。1912(大正元)年卒業制作の《裸体美人》が評判を呼んだ。同年岸田劉生らによる「ヒュウザン会」結成に参加。1914年生活苦のため一時帰郷。電灯会社の代理店を営むが、自画像や風景画などの制作に没頭した。1916年上京。1918年頃に煩った神経衰弱と肺結核の療養のため翌年神奈川県茅ヶ崎に移住(現在の茅ヶ崎市南湖4丁目)。南画の研究に傾倒した。1922年春陽会創立に際して客員に招かれ、翌年小林徳三郎らと円鳥会を結成した。1927年肺結核のため死去。

 

 

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