• ホーム
  • 今月の1点
  •  《 道標の柵(御鷹揚の妃々達)》 棟方志功 ( むなかた・しこう 1903~1975 )

今月の1点 Monthly Pickup 10月

《 道標の柵(御鷹揚の妃々達)》 棟方志功 ( むなかた・しこう 1903~1975 )

1963(昭和38)年 彩色木版・紙 縦42.0×横75.0(cm) 《棟方志功記念館》

 

2015_10gatsu400.jpg

1955(昭和30)年にサンパウロ・ビエンナーレ、その翌年にヴェニス・ビエンナーレでグランプリを獲得した棟方志功は、名実ともに「世界の。Munakata」(草野心平「わだばゴッホになる」より)になった。仕事の依頼が増える一方で、取材や打合せといった来客や雑用も増え、そうした喧噪から逃れるために、鎌倉市鎌倉山にあった庭付きの家を求め、別荘兼アトリエとして使い出した。湘南地域との関わりを持ったのはその頃からである(しかし多忙を極める生活ぶりから、本格的に鎌倉に暮らすのは後年のこと)。棟方が尊敬して止まない萬鉄五郎が、当地茅ヶ崎に転居したのも、やはり多忙からくる神経衰弱と結核が原因だったことを思い起こせば、棟方が同じ湘南の地である鎌倉に住居を求めたのもあながち偶然ではなかったのかもしれない。
この作品が制作されるのに先立って、棟方の人生に起きた損失的な出来事として1961年の恩師・柳宗悦の死があげられよう。棟方が自らの芸術の道に進んだきっかけのひとつが1936年から始まる柳ら民藝運動の推進者との交流だった。柳が棟方の版画を認めたことで、棟方は大きな自信を得、背中を押してもらったように感じたことだろう。しかし一方で柳の審美眼は厳しく、1937年、棟方が故郷・青森へ捧げる祈りにも似た想いのたけを造形化した大作《東北経鬼門譜》は評価されず、柳が優れていると認めた一部分のみを摺るだけに止めざるを得なかった。そうした出来事が棟方の心情にどのような影を及ぼしたのかは窺い知れないが、柳が没して三回忌を過ぎた頃、棟方は突如思い出したかのように故郷をテーマにした作品を次々と生み出すようになった。
この作品は前川國男が設計した弘前市民会館大ホールの緞帳の原画として1963年の暮れに制作。弘前城を有する弘前公園が後の大正天皇に「鷹揚園」と名付けられたことから、弘前城は「鷹揚城」と呼ばれるようになった。そのためこの作品も《御鷹揚(おんたかあげ)の妃々達(ひひたち)》と題され(1964年に《道標の柵》と改題)、中央に鷹、左右に弘前の四季を表す4人の女神が描かれている。右から春夏秋冬と続き、桜の名所、弘前の春を迎える歓喜、伸びゆく木々の緑に包まれる夏、色彩豊かな紅葉の秋、そして厳しくも美しい冬の情景が表現されている。緞帳は新たに行った棟方の指示のもと、本作とは異なる配色で京都の川島織物によって製作され、1964年の5月1日市民会館の落成とともに公開された。近年建物のリニューアルに伴い復元され、製作当時の鮮やかな色彩が蘇っている。

この作品は11月3日まで「萬鉄五郎生誕130年 棟方志功没後40年 棟方志功 萬鉄五郎に首ったけ」に展示されています。

(美術館 T.T)

<略歴 >

棟方志功 ( むなかた・しこう 1903~1975 )
1903(明治36)年、青森市の刀鍛冶職人の家に生まれた。幼い頃から極度の近視だったが画家になることを熱望。裁判所の給仕など務めながら友人達と絵画制作を行った。1924(大正13)年上京、帝展などに油彩画を出品するが落選が続く。一方版画も手がけ1928(昭和3)年第6回春陽会展に「星座の花嫁」シリーズ3点が入選。同じ年に帝展で油彩画《雑園》が入選するが、次第に主な表現分野を版画に定め、佐藤一英の詩に感銘を受けて制作した《大和し美し》を1936年国画会で発表。それが柳宗悦、河井寛次郎ら民藝運動の主導者に認められ、以後棟方の芸術性に深く関わるようになった。1945年富山県福光町に疎開。同地で浄土真宗に触れ、従来から備わっていた仏教的な主題がより深まった。1951年東京に転居。1955年のサンパウロ・ビエンナーレ、翌年のヴェニス・ビエンナーレでグランプリを獲得すると国際的な評価が一気に高まり、海外へ外遊する機会が増えるようになった。同年鎌倉山に別荘兼アトリエを持つ。1969年青森市から名誉市民第1号に選ばれ、その翌年に文化勲章を受章した。1975年肝臓がんのため東京都杉並区の自宅で逝去。墓所は青森市の三内霊園にゴッホの墓を模して作られている。

 

 

<< 9月