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今月の1点 Monthly Pickup 9月

《本郷区根津 寺遠望》 鹿子木孟郎 ( かのこぎ・たけしろう 1874~1941 )

1893(明治26)年1月6日 鉛筆・紙/額装 縦28.6/横47.4(cm) 《府中市美術館所蔵》

鹿子木孟郎《本郷区根津 寺遠望》「降る雪や 明治は遠く なりにけり」と中村草田男が詠んだのは昭和6(1931)年のこと。大学生の中村が雪に包まれた小学生時代の母校(現在の港区立青南小学校)を訪ねた際に生まれた句です。中村が記憶していた明治の様子はそのまま小学生だった自らの思い出につながっていたのでしょう。明治が遠くなって久しいこんにちでは明治時代の情景を正しく把握することは困難です。
多くの文学や芸術の舞台となった首都・東京の町並みは関東大震災と大規模な空襲によって大きく姿を変えました。私たちがかつての様子を思い浮かべようとするならば、残された写真や絵画、文芸や情報誌の記述などの断片的な資料をかき集めて想像力を働かせることくらいしかできません。
国木田独歩が明治31(1898)年に著した『武蔵野』は東京郊外を舞台にした随筆ですが、武蔵野の森や里山の美しさに率直に感動する独歩の心情が描かれており、現代の私たちが読んでも黄金色に輝く秋の光に包まれた雑木林が目の前に現れてくるようです。
ワーズワースやツルゲーネフらの影響があるとはいえ武蔵野の美しさを賞賛する独歩の態度は土地に暮らす人々の意識とは隔たりがあったようで、小金井の野良散歩を楽しむ独歩と友人を地元の「婆さん」は「東京の人はのんきだ」と一蹴します。独歩らと「婆さん」を区別するのは世代や教育を受けた環境の違いもさることながら、旅をする者とそうでない者の眼差しの違いと言えるかもしれません。

旅をしながら明治の東京郊外の風景を細部にわたって描写したのは独歩に限りません。
今回紹介する写生画の作者・鹿子木孟郎は小山正太郎の画塾「不同舎」の門人です。鹿子木が不同舎で学んだのは明治25年から28年にかけて。ちょうど10代の終わりと20代の始まりを不同舎で過ごしたことになります。
小山の写生画におけるモットーは「よく決心してタンダ(方言=ただ)一本断然やるべし」というもので一本の線によって風景の輪郭線を正確にとらえ描くことです。鹿子木は他の画友とともに教えを守り、早朝から夕刻まで、季候の良い春や秋は一週間程度東京郊外を旅して写生画を描きました。
それらの写生画は師の画風を受け継ぎ、道路を画面中心に据え両脇の建物や樹木などが一点に向かって消失する一点透視図法によって描かれた「道路山水」と呼ばれる様式を伴っています(注1)。

絵になる場所を求めてさまよい歩く彼等の姿は、まるで集団で狩猟旅行を行うようにも見えたことでしょう。小山は近代国家建設のためには画家といえども強健な心身を持ち国家有用の徒でなければならないと考えていました。写生旅行は行軍演習にも似た側面を持っていたようです。小山は明治の先駆的な洋画家であり、日本陸軍初となる西洋式の地図作成に関わった川上冬崖や工部美術学校のイタリア人美術教師フォンタネージから教育を受けています。西洋絵画がひとつの技術として国家に役立つべきだという考えは彼等の影響も指摘できますが、越後長岡藩士として出生した小山の出自とも無縁ではありません。

さて、作品を見てみましょう。鹿子木が不同舎に入舎しておよそ二ヶ月が経過した頃の作品です。手慣れた感じですが後の鹿子木の「道路山水」に見られるような、余白を広く残し対象を省略することで生じる軽さの妙味よりも描き込みの重厚さが勝っています。描いた場所は不同舎があった本郷と同じ地域。あるいは写生旅行に出かけたばかりにとらえた風景かもしれません。正月気分が残る1月6日。凧揚げに興じる子どもの傍らに犬とおぼしき動物がたたずんでいるのが微笑ましい。雑木林の影が濃く長く伸びているのは、冬特有の澄んだ空気と斜めに降りてくる日差しのせいでしょう。鋭くとがった鉛筆の線は緊張感とともに美しい伸びやかさを持ち、的確に描かれた描線からは作者の卓越した技術とそれに裏付けられた自信を感じさせます。鉛筆の線を平行または交差させる技法・ハッチングのリズムと陰影の強弱は見る者に視覚的な余韻を与えています。生き生きとした表現から鹿子木の描く楽しさが伝わってくるようです。

写生旅行の一日の終わりは指導陣の講評でした。鹿子木をはじめとする門人たちは一様に自らの持てるだけの技量を示すことに終始していたに違いありません。しかし「道路山水」から受ける印象は、仲間とともに旅をして新鮮な風景に巡り会えた喜びと「歩く」ことを通じて直接肉体で確かめた自由を謳歌する青春の息吹です(注2)。不同舎の画家たちが持つ若々しさは近代化を迎えた日本という国の若さに重なっているように思えてなりません。明治の風景を見つめた彼等の眼差しの先には今後の日本の姿が見えていたのかもしれません。
    
現在開催中の展覧会「明治を歩く-湘南と武蔵野」では日本近代洋画の優れたコレクションを有する府中市美術館の協力により、明治美術会、太平洋画会系統の画家たちに萬鐵五郎や三橋兄弟治など茅ヶ崎ゆかりの画家を加えて様々な風景画を紹介しています。133点の展示作品のうち61点が鹿子木の「道路山水」連作です。それらの作品に接することで鹿子木と同じ眼差しを共有することができるとともに、独歩がその美しさを絶賛し、今では想像することしかできなくなった明治時代の武蔵野風景を旅することができるでしょう。




1
「新たに透視法に醒めさせられた彼等は、道路並木の屋並等の諸線が地平線上の消失点の方へ消失する現象に悦びを感じて、しきりにさう云ふものを画いた。人は後にこれを道路山水などと呼んで居る」(石井柏亭『日本絵画三代志』創元社・1942)

2
小山正太郎の教育方針には門人の個性や自由な精神を尊重するという側面もありました。「不同舎」という名称にはそうした思いが込められているといわれています。


 (美術館 T.T)

この作品は『明治を歩く ―湘南と武蔵野 府中市美術館コレクションを中心に』 [会期:2014年9月7日(日)~11月3日(月・祝)]に展示されています。

<略歴 >

鹿子木孟郎(かのこぎ・たけしろう) [明治7(1874)年-昭和16(1941)年]
池田藩士の子として岡山に生まれた。地元の画家・松原三五郎の天彩学舎で洋画を学び図画教師となるが、やがて肖像画で生計を立て明治25(1892)年上京、不同舎に入舎した。明治28年不同舎を卒舎すると再び教職に就くものの明治33年不同舎の学友、満谷国四郎、河合新蔵らと水彩画家を目指す丸山晩霞と渡米。すでにアメリカに滞在していた不同舎の吉田博、中川八郎らとボストンおよびワシントンにて展覧会を開催し好評を博した。展覧会で得た資金をもとに翌年渡仏。ラファエル・コランやジャン・ポール・ローランスに学んだ。帰国後浅井忠らとともに京都に関西美術院を設立。自邸にも画塾を設け文展や帝展、太平洋画会などでの活躍を通して京都、関西洋画壇を牽引する傍ら生涯3度の留学を果たした。

 

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