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今月の1点 Monthly Pickup 7月

《夏の卓》 山崎 隆夫 ( やまざき・たかお 1905~1991 )

1932(昭和7)年 油彩・キャンバス/額装 縦31.8/横41.0(cm) 《茅ヶ崎市美術館蔵》

山崎隆夫《夏の卓》黒いテーブルに置かれた一台の洋燈(スタンドランプ)と三切れのスイカを、やや高い位置から見おろすようにとらえられた具象画ですが、対象を配置して空間を構成した画面には、後年の山崎が多く手がけた「丸・三角形(台形)・四角形」をモチーフとした抽象作品の種子が内包されていると見るのは穿<うが>ちすぎでしょうか?
本作制作前年の2月、1927(同2)年の晩春以降の月二回、芦屋のアトリエにかよって絵の指導を受けていた小出楢重(こいで・ならしげ 1887~1931)が世を去っています。山崎はその後、1939(昭和14)年まで林重義(はやし・しげよし 1896~1944)に師事しています。林はヨーロッパ留学から帰国した1930(昭和5)年に二科会を脱退して独立美術協会を創立していますから、山崎の最初の公募展出品に際しては林のアドバイスがあったことが考えられます。この二人の師について山崎は「若い頃、小出楢重先生に芸心と、趣味性を、林重義先生に絵具の知識と、フォービズムのエスプリを教えられました」(1983年の個展あいさつ文)と述べています。
1937(昭和12)年以降、山崎は小出楢重の住居と思い出深いアトリエを借りて住みます。1945(昭和20)年8月6日未明、宿直のため山崎が不在であったアトリエは空襲に遭い三発の焼夷弾の直撃を受けますが、夫人の活躍により焼失は免れています。敗戦後、住居(母屋)は家主に返還し、山崎夫妻は茅ヶ崎に転居する1962(昭和37)年まで、譲渡された師のアトリエに住みつづけました。その後、アトリエは芦屋市に寄贈され、1991(平成3)年の芦屋市立美術博物館開館に合わせて敷地内に改修移築されています。


 (美術館 N.Y)

この作品は夏季収蔵作展 [会期:2014年7月20日(日)~8月31日(日)]に展示されます。

<略歴 >

1905(明治38)年、医師・山崎豊三郎と秋香の長男として大阪市東区(現・中央区)高麗橋に生まれる。1923(大正12)年、父が失明したため希望していた画業をあきらめ神戸高等商業学校(現・神戸大学)に入学。学内の絵画クラブ・青猫社に所属。1927(昭和2)年より31(同6)年まで小出楢重に師事。1930(昭和5)年、のちの三和銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に入行。1931(昭和6)年より39(同14)年まで林重義に師事。1932(昭和7)年より37(同12)年まで独立美術協会展に連続入選。1936(昭和11)年、全関西洋画展にてJ.I氏賞受賞。1938(昭和13)年、国画会展にて国画奨励賞受賞(翌年も同賞受賞)。文展初入選。以降連続入選し1943(昭和18)年には無鑑査となる。1940(昭和14)年、国画会員となり以降国画会展に出品。1947(昭和22)年より49(同24)年まで美術団体連合展に招待出品。1948(昭和23)年、渡辺忠雄頭取の指示により宣伝部門専任となる。菅井汲、吉原治良らを起用。1950(昭和25)年、庫田綴、杉本健吉、香月康男、原精一、宇治山哲平、須田刻太らと型生派美術協会を結成。52年まで出品。1952(昭和27)年より70(同45)年まで朝日広告賞審査員をつとめる。1954(昭和29)年、サントリー社長・佐治敬三の依頼により三和銀行よりサントリーに移籍、取締役宣伝部長となる。部下に開高健、山口瞳、柳原良平など。1955(昭和30)年、詩人と画家による「詩と造形展」に参加。1962(昭和37)年、茅ヶ崎市東海岸南に転居。1964(昭和39)年、広告宣伝制作会社、株式会社サン・アド設立、取締役社長となる。1974(昭和49)年、株式会社サン・アドを退職。1991(平成3)年5月25日、心不全のため藤沢市内の病院で逝去、享年86。2001(平成13)年、茅ヶ崎市美術館にて企画展「富士と抽象―山崎隆夫展」開催。2010(平成22)年、茅ヶ崎市美術館での企画展「開高健とトリスな時代」に開高健との合作作品などが展示される。

 

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