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今月の1点 Monthly Pickup 5月

《駿河町夜景》 井上 安治 ( いのうえ・やすじ 1864~1889 )

1881(明治14)~1889(明治22)年 木版(多色)・紙/額装 縦9.5/横15.6(cm) 《茅ヶ崎市美術館蔵》

2014_05gatsu_400.jpg夕闇には人を誘惑する不思議な力があるようです。
昼間の圧倒的な光が弱まると同時に一層濃くなる思いがあるからでしょう。ノクターンやノットゥルノと呼ばれる「夜の想い」は特に19世紀のヨーロッパで愛された芸術の主題でしたが日本ではどうだったでしょう。
「夜の絵」は実は日本でも古くから愛された画題で、平安時代のあの源氏物語絵巻では夜の光景が淡い銀色であらわされていました。18世紀から19世紀にかけ、江戸は世界有数の大都市であったといわれます。賑わい、活気あふれる昼間から一転、夜の街にはかすかな燈明が照らし出すしっとりとした薄闇の情緒があったはずです。庶民の大きな娯楽であった浮世絵には市民が愛したいくつもの夜景が描かれていました。
さて今回ご紹介するのは開催中の「絵師たちの視線(まなざし)展」から井上安治の《駿河町夜景》です。昼間の喧騒がうそのように、静けさに沈む平和な夜の街。現在、日本橋中央通沿いの三越本店と道をはさんで三井本館が建つ場所です。実はこの一角は日本の近世史上重要な場所で江戸時代から北斎、広重をはじめ、多くの浮世絵師たちが繰り返し画題としてきました。
その人気の理由は二点あります。まずここが呉服屋や両替商を営む越後屋、三井家の本拠地であったこと。つまり江戸の経済的繁栄を象徴する場所、浅草とならび人々の関心を集める特別な場所であったということです。
次に富士山がよく見える場所だったということがあります。「本店と出店の間に富士が見え」の川柳にあるように、昼間ならば、立ち並ぶ越後屋の店舗の西のずっと奥に江戸城とその上にそびえる霊峰が見えたはずです。この光景が大事だったのです。将軍家の安泰を祝うように、徳川の故郷駿河の国の富士が重なる正月風景の錦絵があります。これこそ「駿河町」の名のいわれです。
それと比べ、寂しげなこの絵には富士山はもちろん主が去った後の江戸城も見えません。中央を支配するシルエットは明治9(1876)年に建った三井銀行です。鋭角的な屋根の稜線に江戸の商人経済が西洋化していく様が暗示されます。ただしこの絵には元になった図があります。全部で130点をこえる安治の東京名所絵シリーズの半分近くには下敷きとした作品群があるのです。
井上安治について分かっていることは多くありませんが小林清親が彼の師匠でした。その清親は西洋風の遠近法、陰影を錦絵に応用した「光線画」で評判を得ましたが後継者の安治は師匠とほぼ同じ構図を用い、四分の一の縮小サイズで描きました。
 同じ場所を描いた清親の画(参考図版)は雪の日の昼間の光景として描かれています。それに対し安治の夜景は和風・洋風のコントラストが闇の中でほどよく溶け合い、独特の雰囲気が生まれています。師匠との気質の違いではないでしょうか。井上安治は明治時代を駆け抜けるように26歳で世を去りました。
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(参考図版)
小林清親《駿河町雪》1876-1881年
府中市美術館蔵

 (美術館 M.O)

<略歴 >

井上清七の長男として江戸浅草並木町に生まれる。1878(明治11)年頃、小林清親の門人となる。1880(明治13)年、3点の風景木版画が刊行される。1881(明治14)年から歿年にかけて、のちに「東京真画名所図解」と称される連作が刊行される。この年、師の清親は光線画の制作をやめる。1884(明治17)年、探景の画号も用いはじめる。また、この頃から開化絵、風俗画、相撲絵、教訓絵なども手がけるようになる。1889(明治22)年、親族の印藤ますと婚約するが、9月14日、脚気に伴う心臓機能不全により逝去。享年、26。

 

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