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《大和心》 横山大観 ( よこやま・たいかん 1868~1958 )

昭和期 絹本着色/軸装 縦126.3/横37.0(cm) 《茅ヶ崎市美術館蔵》

 

作品を納める桐箱には作者本人による画題(箱書)はありませんが、大観の養子である横山大玄<だいげん>の手により「大和心」の箱書がなされています。
この「大和心」とは、本居宣長<もとおり・のりなが>の和歌「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」に由来するのでしょう。
この歌は宣長の自画像「本居宣長六十一歳自画自賛像」(1790年作/本居宣長記念館蔵/国指定重要文化財)の画賛に記されているものです。記念館の解説によれば、この歌は「一般論としての『大和心』を述べたのではなく、どこまでも宣長自身の心」を詠んだものとされています。しかし、時が降り戦時下の1940年代には、桜をこよなく愛したという宣長の歌は「大和心」そのものを詠んだ歌―日本精神を物に形容した歌―と解釈されるようになりました。
戦前から戦後にかけて日本画壇の精神的牽引者であった横山大観もまた、本作において「大和心」を日輪と山桜で象徴的に表現しています。縦長の絵絹<えぎぬ>に日輪と山桜だけが描かれた簡潔な画面ですが、簡潔であるからこそ、それぞれのモティーフの配置や空間の構成には充分な配慮がなされています。
落款印の「鉦鼓洞主」とは、徳川幕府最後の将軍・慶喜の実父で水戸藩主の徳川斉昭が名づけた「鉦鼓洞」(岩壁の洞穴に打ち寄せ反響する波音から命名)に由来し、大正以降のほとんどの作品に用いられています。また、署名の「観」の旁<つくり>である「見」の形から、1940年から48年頃にかけて使用された字体(「抜け落款」)であることから、おおよその制作時期が推定できます。
この作品は、3月9日(日)まで開催している「2014・春季収蔵作品展」で展示しています。

( 美術館 N.Y ) 

<略歴 >

水戸藩士の長男として茨城県水戸に生まれる。1889年、東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)絵画科に第一期生として入学。岡倉天心、橋本雅邦<がほう>らに学ぶ。1893年、卒業。1895年、京都市立美術工芸学校予備科教諭となり竹内棲鳳(のち栖鳳)と同僚となる。翌年、東京美術学校図案科助教授に任命される。1898年、岡倉天心排斥を謀る美術学校騒動により天心(校長)、橋本雅邦、盟友・菱田春草らとともに辞職。天心による日本美術院創立に参加、正員、評議員となる。この頃、天心より「空気を描く」方法を課題として与えられ、春草とともに空気遠近法なども取りいれた没骨画法<もっこつがほう>を確立するが当時は世に容れられず朦朧体<もうろうたい>と揶揄された。1903年、天心の勧めにより春草とインド訪問。現地で作品展を開く。1904年より翌年にかけ春草とアメリカ、ついでヨーロッパ訪問。各地で作品展開催。1906年、天心以下、大観、春草、下村観山、木村武山は茨城県五浦に移住、「日本美術院の都落ち」と呼ばれる。1907年、文部省美術展覧会(文展)の審査員となる。1914年、師・天心の一周忌に日本美術院を再興。1930年、羅馬<ローマ>開催日本美術展覧会を組織し、美術使節としてイタリアを訪問。1931年、帝室技芸員に任命される。1935年、帝国美術院会員に任命される。1937年、第一回文化勲章を竹内栖鳳とともに受章。1958年2月26日、急性気管支炎のため逝去。

この作品は常設展「2014・春季収蔵作品展」 会期:2014年2月9日(日)~2014年3月9日(日)に展示されています。

 

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