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織部花器(おりべかき) 北大路 魯山人(きたおおじ・ろさんじん 1883~1959)

高25.0/径22.1(cm) 陶器 《笠間日動美術館蔵》

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 たとえば水瓜のような球体に大胆に裂け目を入れればこのような形になるのでしょうか。中に筒を仕込んだ花器のデザインは魯山人以外に誰も思いつくものではないでしょう。11月4日まで開催される「魯山人の宇宙展」に展示されています。

 近くで見ると7カ所に切り込まれた刃物の跡は思いのほか荒々しく、頭に浮かんだイメージを即座に実行した魯山人の姿が想像できます。

 魯山人は陶芸家として、また美食家として知られていますが、その本領は書にあるとよくいわれます。40代に始まる作陶は星岡茶寮で提供する料理の器としての必要から生まれたものでした。一方、複雑な家庭事情の下に生まれた少年魯山人にとって、書の技能を磨くことは早く社会で認められるための切実な手段だったのでしょう。硬い素材に鋭利な刀で線を刻む篆刻(てんこく)の技術がその基本としてありましたから刃物使いの上手(うま)さもその辺からくるのでしょう。

 魯山人は1955年に織部焼の人間国宝(重要無形文化財)認定の申し出を受けながら辞退したといわれます。へそ曲がりの魯山人らしいエピソードです。

 桃山から江戸初期の武将古田織部の好みにちなむ美濃の茶陶、織部焼はオリーブ色の釉と抽象絵画を思わす大胆な文様で人気を博しました。

 昭和初期に荒川豊蔵の志野、金重陶陽の備前など桃山陶器を復興する試みが続くなかで織部復元に関しては、たしかに魯山人以上の貢献者はなかったといえます。

 ただし陶芸家としての活動の前にたくさんの名品を鑑賞し、目利きであった魯山人は歴史的陶器のエッセンスだけを掬い取り、現代に再生させることをめざしました。歴史に学ぶことで伝統の束縛から自由であった稀なアーチストであったと思います。

 彫刻家イサム・ノグチとの親交にもあらわれているように魯山人にはモダン・アートへの理解がありました。おそらく魯山人にとって常に気になる存在だった柳宗悦が主張する「用の美」に対し、日常生活に埋没しない刺激的な用の美の提案としてこのような器が生まれたと考えてもよいのではないでしょうか。

 人も作品も野太く、いかにも男性的な魯山人でしたが、その懐に隠されたカミソリの刃のような繊細な神経も見落とすことができません。

( 美術館 M.O ) 

<略歴 >

1883(明治16)年3月23日、京都に生まれる。本名・房次郎。父は房次郎誕生前に自殺。何件かの養家に出される。青年時代、書にめざめ、1903(明治36)年に書家を志し上京。書看板、篆刻などを生業とする。1911(明治44)年、朝鮮・中国を旅行。帰国後、滋賀や京都、福井、石川など各所の豪商・趣味人のもとに寄宿する。1919(大正8)年、東京・京橋に友人・中村竹四郎と古美術店を開業。客に手料理を供し評判となり、21(同10)年には店舗二階を会員制の美食倶楽部とし、商品の古陶磁を食器とする。1923(大正12)年の関東大震災により店舗を焼失、芝公園内の「花の茶屋」にて会員制料亭を始め、ついで25(同14)年に赤坂日枝神社境内の「星岡茶寮<ほしがおかさりょう>」に移り中村を社長、魯山人を顧問兼料理長として会員制高級料亭を開業。1926(昭和2)年、現在の鎌倉市山崎に約7000坪を借り、陶房、窯場などを築き、翌年、魯山人窯芸研究所星岡窯<せいこうよう>と名づけ荒川豊蔵を工場長とする。また、敷地内に古陶磁参考館を設置。1935(昭和10)年、星岡茶寮を解雇される。中村を不当解雇で提訴、1945(昭和20)年5月、鎌倉の窯場と収集作品の半分を獲得する示談成立。1954(昭和29)年、アメリカ、ヨーロッパを旅行。1955(昭和30)年、織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)指定を打診されるも辞退。1959(昭和34)年12月21日、逝去。

企画展「開館15年・魯山人生誕130年記念 魯山人の宇宙」 会期:2013年9月8日(日)~11月4日(月・祝)

 

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