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総織部大鉢(そうおりべおおばち) 北大路 魯山人(きたおおじ・ろさんじん 1883~1959)

高18.5/径41.4(cm) 陶器 《笠間日動美術館蔵》

総織部大鉢 北大路 魯山人織部焼とは緑色の釉薬を施した陶器で、桃山時代(16~17世紀)に現在の岐阜県土岐市および可児市近辺でさかんに生産されました。魯山人はこれを現代に復興させ、食器などを多く制作しています。
この作品は「開館15年・魯山人の生誕130年記念 魯山人の世界」展示品のなかで最大の作品。「総織部」とは器全体に緑釉がかけられたものをいいます。

北大路魯山人は稀代の美食家であり、やきものをはじめさまざまな分野で、確固たる美意識に貫かれた才能を発揮した人物でした。
「美」を求める姿勢や、その作品、人物に心底惚れこむ人がある一方で、何ものにも縛られることなく、敵対するものや、自身が「俗」と断定したものを徹底的に攻撃し、尊大とも高慢ともとられる態度から、嫌われ、敵対する人も多かったといわれています。
魯山人が世を去って半世紀以上の歳月が経過した現在もなお、彼をめぐる噂や伝説が作品につきまとうことも、時としてあるようです。しかし、このことは「作家」としては、ある意味においてこのうえない名誉であるともいえるのではないでしょうか?
その道に詳しい人でなくては知られていない作家と、多くの人が名前を知り、虚実こもごもの逸話が語られる魯山人。なにより作品自体に力(魅力)がないものであったならば、それらが「逸話」をまとうこともないはずです。

1955(昭和30)年、魯山人は友人でもあった文部省文化財保護委員会技官・小山冨士夫をつうじて織部焼の技法にたいして重要無形文化財(人間国宝)認定を打診されますが、これを固辞しています。翌年にも打診されたともいわれていますが、結果は同じでした。
1954(昭和29)年におよそ半年間をかけてアメリカおよびヨーロッパ各国を旅した魯山人。ロックフェラー財団からの招待という名目による海外旅行でしたが、相当な金額となった諸経費はすべて魯山人自身が負担しており、帰国後はその債務返済に追われていたといいます。人間国宝の認定は作品価格の高騰など経済的には利する点が多かったはずですが、魯山人は金銭的な窮状にありながらも名誉とこれに付随する実益を選びませんでした。その理由はあきらかにされていません。
ちなみに織部焼での人間国宝認定を打診された陶芸家は魯山人以外に誰もいません。

(美術館 N.Y ) 

<略歴 >

1883(明治16)年3月23日、京都に生まれる。本名・房次郎。父は房次郎誕生前に自殺。何件かの養家に出される。青年時代、書にめざめ、1903(明治36)年に書家を志し上京。書看板、篆刻などを生業とする。1911(明治44)年、朝鮮・中国を旅行。帰国後、滋賀や京都、福井、石川など各所の豪商・趣味人のもとに寄宿する。1919(大正8)年、東京・京橋に友人・中村竹四郎と古美術店を開業。客に手料理を供し評判となり、21(同10)年には店舗二階を会員制の美食倶楽部とし、商品の古陶磁を食器とする。1923(大正12)年の関東大震災により店舗を焼失、芝公園内の「花の茶屋」にて会員制料亭を始め、ついで25(同14)年に赤坂日枝神社境内の「星岡茶寮<ほしがおかさりょう>」に移り中村を社長、魯山人を顧問兼料理長として会員制高級料亭を開業。1926(昭和2)年、現在の鎌倉市山崎に約7000坪を借り、陶房、窯場などを築き、翌年、魯山人窯芸研究所星岡窯<せいこうよう>と名づけ荒川豊蔵を工場長とする。また、敷地内に古陶磁参考館を設置。1935(昭和10)年、星岡茶寮を解雇される。中村を不当解雇で提訴、1945(昭和20)年5月、鎌倉の窯場と収集作品の半分を獲得する示談成立。1954(昭和29)年、アメリカ、ヨーロッパを旅行。1955(昭和30)年、織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)指定を打診されるも辞退。1959(昭和34)年12月21日、逝去。

企画展「開館15年・魯山人生誕130年記念 魯山人の宇宙」 会期:2013年9月8日(日)~11月4日(月・祝)

 

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